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「科学的」論争の落とし穴
電磁波の安全性議論についての一考察
(OhmyNews 2008年3月24日)
ある主張に対して「それは科学的である」「科学的でない」と主張されることがある。電磁波や環境ホルモン、遺伝子組み換え食品、化学物質など登場してから歴史が浅く、影響についてのデータが十分に蓄積されていないものについての安全性・危険性を議論する際に主張される。
価値中立的な外観
「科学的である」「科学的でない」との主張は、議論において強力な印象を与える。一般に「科学的であること」は「科学的でないこと」に比べて優れているとの価値判断がある。一方で科学的とは、客観的で、価値中立的であることを含意する。
つまり「科学的である/ない」と主張することで、批判者は一つの価値判断を下しているにもかかわらず、客観的で、価値中立的な判断を下しているような外観を作出できる。このため、本当に科学的であるのか否かという点は別として、「科学的である」「科学的ではない」と決め付けることは議論で自説を押し通す上で非常に強力な武器となる。
従って、議論において「科学的である/ない」という主張が出てきたら、雰囲気に流されず、「科学的である/ない」と判断した根拠が何かを冷静に考える必要がある。
何の根拠もなければ「科学的である/ない」という主張も単なる決め付けであり、主張者の感想に過ぎないことになる。
そこで「科学的であること」とは何かが問題になる。ある主張を「科学的である/ない」と評する場合の「科学的」とは第三者が検証可能であることを意味すると考える。第三者が検証可能、即ち他の人が同じように検証しても同じ結論に到達できるような主張が科学的である。
科学的とは客観的と言い換えられるかもしれないが、客観的とは何かという問題が発生し、トートロジーとなる。しかも、客観性を突き詰めると主観的な存在である人間が真の意味で客観に辿り着くことが可能なのか、という根源的な疑問が出てくる。
「科学的であること」を検証可能であることと捉えるならば、ある主張に対して「科学的ではない」と決め付けることが、勝ち誇ることには直結しない。
なぜなら、ある主張が「科学的でない」というのは第三者に検証可能な形で提示できないことであり、その主張の正しさを第三者が納得できなかったというにとどまり、その主張が誤りであることを意味しないからである。
例えば「電磁波は健康に悪影響を及ぼす」という主張がある。この主張が「科学的である」ためには、電磁波を浴びることで健康が害されたことを、第三者に検証可能な形で証明できなければならない。これができなければ上記主張は「科学的ではない」との烙印を押される。
「科学的か否か」で議論は決着せず
実際のところ、電磁波の有害性を主張する研究の多くは疫学研究である。放送タワーや携帯電話の基地局のような電磁波発生源の周辺に住む人は、他の地域に住み人に比べてガンや白血病など病気の発生率が高いという内容が多い。
ここでは電磁波発生源の周辺に住む人々は病気が多いという統計から「電磁波を浴びたことが病気の原因」という結論を導き出している。これに対して、疫学的研究だけでは、電磁波を浴びたから白血病になったという因果関係を説明してはいないと批判することは可能である。すなわち、「電磁波は有害」との主張は「科学的ではない」との批判である。
ただ、「電磁波は有害」が「科学的ではない」と批判できたからと言って、それで議論が決着する訳ではない。電磁波の有害性を第三者に検証可能な形で提示することができていないとするにとどまり、主張が誤っていることを意味しない。むしろ、多くの疫学研究が電磁波と病気発生率との相関を示しているという事実は厳然と存在する。
また、「電磁波は有害」との主張が「科学的ではない」と退けたとしても、「電磁波は安全」ということにはならない。電磁波の安全性を主張したいならば「電磁波は安全」が「科学的であること」を示さなければならない。
積極的に安全であることを証明するのが「悪魔の証明」になると言うのならば、電磁波の有害性の根拠となっている疫学研究に対し、病気発生率が高いのは電磁波以外の要因であることを説明できなければならない。それができないならば「電磁波の安全性」についての主張は「科学的ではない」との批判を免れない。
結局のところ、「科学的である/ない」という評価軸だけでは、何れの主張も科学的に認められるところまで至っていない場合、安全なのか危険なのか結論が出せない。あくまでか科学の立場で論じるならば、科学の進歩を待たなければならない問題である。
しかし、規制をするか否かという判断を下す場合のように、とりあえず結論を出さなければならない場合もある。その場合、「その主張は科学的でない」として議論に終止符を打つことはできない。何らかの結論を出すためには「危険性が立証されなければ安全とみなす」または「安全性が立証されなければ危険とみなす」の何れかのルールが予め合意されている必要がある。
従来型の自由主義経済の下では、規制は最小限度に止めるべきであり、とする発想が支配的であった。その場合、危険性が確認されなければ規制されるべきではない、となる。危険性の主張を「科学的ではない」と攻撃し、積極的に安全性を説明しようともしない態度は、この「危険性が立証されなければ安全」とみなす思想に立脚しているからに他ならない。
「因果関係が明らかになったときは、手遅れ」を防ぐため
この発想に対するアンチテーゼとして登場したのが、慎重な回避(Prudent Avoidance)、予防原則(Precautionary Principle)、予防的方策(Precautionary Approach)である。すなわち、「安全性が立証されなければ危険とみなす」という考え方である。
環境・健康問題では因果関係が明らかになった時には既に手遅れになることが多い。取り返しがつかなくなる前に対策しなければならないという思想で、ヨーロッパを中心に広がっている。
国連環境開発会議(地球サミット)の「環境と開発に関するリオ宣言」(1992年)第15原則は以下のように述べる。
「環境を保護するため、予防的方策は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きい対策を延期する理由として使われてはならない」
「危険性が立証されなければ安全とみなす」と「安全性が立証されなければ危険とみなす」の何れを選択するかという問題はポリシーの問題であって、科学の問題ではない。
この点についての認識のないままで「科学的である/ない」という主張を応酬しても噛み合わなくなる。実際に電磁波などの安全性についての議論が混乱するのは、この点が曖昧のままで「科学」を持ち出すことが一因であると考える。
科学的な議論をすることは第三者と共通認識を形成していく上で非常に重要なことである。しかし同時に、科学の限界についても認識しなければならない。それが真の科学的態度である。
【記者付記】
本記事の着想は別記事「人口密集地への巨大パラボラ乱立に猛反発」のコメント欄から生まれたものである。コメントから意見が対立する原因、議論が噛み合わなくなる原因を探っていく中で本記事の着想が生まれた。コメントを寄せてくれた方々に感謝の意を表したい。

(2008年03月24日19:00 林田 力)
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